『さよならをしよう』の後、桃源郷に着いて
何度迎えたかも知らない春のある日に、その人はやってきた。
お蝶さんの知り合いだったようで、見た目の若さに不釣合いなほど冷静な彼女が珍しく、そしてひどく狼狽していたことを覚えている。
その人の名は、サトルと言った。
以前に一度、この村にやってきたことがあったそうだ。しかし一泊だけして、すぐに出て行ったという。やってきた理由がお蝶さんへの届け物の依頼だったということで、しかし地図にもないこの村に辿り着いただけあって、彼は正しく冒険者だった。
それが再訪してきただけならまだしも、以前は六人でいたのがたった一人で、それも危険な森を通ってくるにしては軽装で、案の定重症やら栄養失調やらで入り口に倒れていたのだ。
その時はひとまず村一番体格の良い俺が運んで、それからは知らない。経緯も理由も、お蝶さんが聞いたらしい。その上で、彼女はここに住むことを許可したという。村が隠されているだけであって、気質が閉鎖的ということもない。見目からして無害そうなのと、お蝶さんの判断であること、貸家が少々離れていることもあって、特に反対意見も上がらず、俺も反対しなかった。
サトルが治療のためにお蝶さんの家に泊まっている間、俺がやったことといえば貸家の掃除くらいのもの。さすが冒険者と言うべきか、彼は一週間もかからず歩けるようになって、すぐに俺の元へお礼に来た。
足取りは確りしていて、並んでみれば俺より少し小さい程度。少しやつれているが、その体躯は冒険者らしく鍛えられていると、借りたらしい着物の上からでも分かる。
礼をして、浮かべるのは人好きする微笑、しかし。
「***さん、ありがとうございます」
――なんて生気の無い声だ、と思った。
それからというもの、お蝶さんとなぜか俺も様子を見に行くようになったのだが、いつでもサトルは笑顔で出迎えてきた。村人に色々聞きながら畑を作り、たまに森へ出て狩りをし、家を汚くすることもなく至極まともに生活していて、お蝶さんはずいぶん安心したようだった。
「男性一人そやし不安やったけど、生活力のある方は見てて安心します」
「俺の方見て言わんでください。まあ確かに、飯もちゃんと食ってるみたいで」
「……料理は好きですから」
着物とここに着た当時の服は随分趣向が異なるのだが、いつの間にか着こなしているし正座も覚えて、またそれが似合っているから不思議だ。
サトルは黒髪で、顔立ちが俺たちに似ているからかもしれないな。そんなことを考えていたらついまじまじ見つめてしまっていたようで、首を傾げられたので大した意図はないと謝っておいた。
声も少しは元気になったような、気がする。何があったかは知らないが、ここで過ごす内に立ち直っていくだろう、とこっそり安堵するのだから、俺も人が好い。
それは、そんなことを思いながらお蝶さんと帰っていく途中のことだった。
「光、戻れへんねぇ」
「へ?」
「目」
ぱちくりした俺に、お蝶さんはほぅと吐息を零す。俺に呆れてのことか、彼を心配してのことかは分からないが、そもそもお蝶さんの言う意味から分からない。
「目? なんのことです」
「言うたまんまのことです。かと言うて、あたし達がどうにかでけることでもないやろうけど」
「はぁ……」
「***はん、たまに様子見てやってくれへん?」
「……は?」
いきなり何を言うのか、思わず大分下にあるお蝶さんの頭を見つめると、彼女は遠くなった彼の家を視線で指し示した。いや、それは分かりますが。
なぜ俺が、ということだ。嫌というわけでもないし、別に様子を見るくらいは構わないのだが、わざわざこの場で俺に頼む理由が分からない。
「あたし一人というのも、えらい(きつい)ですので。あんた、世話好きやろ?」
「え、ええまあ、……あの家建てたのも俺だし」
なんとなく言い訳がましいことを口にしつつ。特に今までと変わらないわけなので、結局了承することとなった。
サトルが苦手なわけでもないし、いつでも歓迎してくれているので、別に何も問題ないはずなのだ。はず、なのだが。
引き受けてしまった頼まれ事が、かなり荷が重い気がするのはなぜなのか。
サトルに何があったのか、お蝶さんに聞いてみたことはあるのだが、彼女は話そうとしなかった。それはつまり、サトル自身から聞き出す他ないのだが、それも非常に難易度が高そうに思えた。
人の過去に興味はないのでそれは構わないのだが、お蝶さんの言葉と思い出してしまった生気のなさが気になって仕方がない。
お蝶さんと別れてからの帰路、頭をがしがし掻いて。なんとはなしに離れた家を見ると、もう灯りは点いていなかった。
そんな***さん視点