不定狂気中の兄さん話。勢いだけで書いたので日本語ファンブルとブラコンが許せる人だけ。

 聖夜と呼ばれる日が近付いていたとして、生活はたいして変わりやしない。
 少し変わったことと言えば、つい先日に商店街の福引で当てたのだと、幼なじみがお菓子の詰まった小さなバケツをふたつ持ってきたくらいのものだ。
 自分はといえば、一人だとちょっと広い交差点にも出られない、相変わらずの有り様で。うかつに外出できない身で聖夜に向けてできることといえば、買い溜めておいたり、ネット注文で取り寄せたり、弟に頼んで買ってきてもらったりした食材を、なるたけ美味しく調理することくらいだった。
「だから、せめてと思ってね」
 そんなことをひとりごちて、自分と弟を模したパペットの頭に、空にしたお菓子のバケツ缶を被せてみる。それらは誂えたように、ぴったりはまった。赤と緑を主とした配色の、クリスマスに合わせたふたつのバケツは、ほんの少しだけ部屋を彩ってくれた……と、思う。
 楽しくない、わけじゃないんだ。誰にともなく言い訳をこぼしてみる。
 家で過ごす日々が退屈ではないといえば少し嘘になるけれど、のんびり弟の帰宅を待っているのは決して悪くない。だけれど、それはいつも、罪悪感と隣合わせだった。
 まったく出ないというわけにもいかないので、外出する際には弟についていてもらい、弟の用事がつかない時には幼なじみに来てもらうこともあった。どちらも迷惑だなんて思わない、とは言ってくれるものの、何かと心配させていることは明らかで。
「……あー……だめだ、うん。これじゃ、ばれそう」
 特に弟の前だと、どうしても顔に出てしまうようなので(しかもその弟はやたらに敏いし、聡いのだ!)、根本的に気持ちを切り替える必要がある。
 ぱし、と頬を軽く叩いた。そのついでに思い出したものに、あ、と声を漏らす。初秋の頃、押入れを整理した際に、小さな置物を発見していたのだ。
 丸いガラスの中に、雪だるまを二体閉じ込めたスノードーム。一体どうやって手に入れていたのかは忘れてしまったが、押し入れの中に入っていて、クリスマスが近くなったら出そうとしまい直したものだった。
 どこだったかな、確かあそこだった、とボックスから見つけ出したそれは、取り出す動きのおかげで白いパウダースノーをドームに舞わせていた。
「ああでも、どこに置こうかな……雪だるまふたつだし、パペットと並べるか」
 コトリと置けば、積もった雪が舞い上がる。バケツを被ったパペットと並ぶその様で、大分クリスマスらしくなった。けれど、作り物の雪が見とれそうなほど綺麗なのがいけなかった。
 寒いのは苦手だけれど、雪は嫌いじゃない。だから、雪景色の中の雪だるまが少し羨ましく、そして自分に置き換えてしまえた。
 雪だるまの周りは木が一本しかなく、実際にこんな場所に行ったなら、きっと正気でいられないのだろう。弟と一緒に雪を楽しみたいだけなのに、そこで見えてしまうのは暗い塔の中だ。
 星だって見に行けていないのに、どうして、自分はこんな風なのだろう。
 自分が悔しくて、雪景色が羨ましくて、そこに引き摺られてきた憎しみが雪のように積もっていく感覚まで覚えて。まるで、世界で自分が一番不幸せのような。
 ネガティブに落ちるのに任せて、ガラスのドームを撫でる指に力が篭もる。
 その程度で割れるはずもないのに――指先に痛みが走った。
「っつ……え?」
 瞬き一つ、ただそれだけを挟む数瞬の内に、視界のすべては割れるような頭痛と共に真っ白に染まっていた。


 真っ白は雪、頭痛は……分からない。
 近くにツリーが一本ある以外は、まさしく雪景色でしかなかった。
「……っひ、」
 喉をひきつらせたのは寒さではなく、何度か覚えのある恐怖だった。白い景色は先の見えない闇になり、狂ったピエロになり、操られた女性になり、壁一面の人形になり、こわした可愛らしい女の子になり――ぐるぐる、と転換する光景に気が狂いそうになる。気が狂う。狂う。
 魔女が笑う、水時計が落ちる、ぐちゃぐちゃに溶けてくずれて、最後に弟を殺す幻想が見える。絡繰って、ループ。
「あ、ああ、嫌、だ……っ殺し、たくない、逃げたくないっ……にげたい、怖い、こわいっ!! たけ、武流、どこ……に……っ!?」
 彷徨う寸前の足が、がしゃん、と何かを蹴り飛ばした。アルミか鉄か、冷たくも熱くもないただの音が、意識を暗闇から引き上げた。
 びくりと体を震わせて見下ろすと、転がっていたのは見覚えのあるバケツだった。赤色を主として、緑色のあしらったクリスマス仕様。先刻パペットに被せたお菓子のバケツ缶が、なぜかサイズを大きくしてそこにあった。
 やんちゃだけれど頼もしい幼なじみに縋るように、バケツを取り上げる。すると、重なっていたのか、もう一つバケツが落ちた。
 ふたつのバケツを手に取り、逃げるようにツリーの根本へ走り寄る。少しでも気を抜くとまた狂気へ落ちてしまえそうで、あるいは半分は落ちたままなのか、周りの様子を伺う余裕もなくバケツを抱えて蹲った。
 息切れしたような断続的な吐息が白くもやとなり、雪と混ざって消える。雪は吹雪いてはおらず、それどころかしんしんと静かに降り落ちているだけなのに、ひどく冷たい風に当てられている心地がする。
 気温の低さはあまり気にならなかった、というより、『寒い』などという感覚はとうに飛んでいるようだった。そうでもなければ、氷のように冷たいバケツなど持てやしなかっただろう。
「……、……寒い」
 だけれど、そう呟いてしまうのはなぜだろう。雪景色を見ていられなくて、思わずバケツを被ってみると、誂えたようにすっぽりはまった。手元に残った緑のバケツは体温が移ったのか、氷よりは少し生ぬるい。武流がいたら被せてやるのに、とふと思った。
 あー、だめだ。これじゃ、帰れない。
 声になったのかも分からない呟きを零して、ぽろりと涙が落ちた。
「帰りたい、な」
 雪を溶かすほどではないけれど、体の中にあった水分は頬を一筋だけ温めた。正気でも狂気でも、自分はまだ生きていてあたたかいし、ひとりぼっちはとても駄目そうだった。
 かといって周囲を見回しはできないので、じっとバケツを睨みつける。さて、バケツとツリーと自分以外には何もない世界だが、幸いにして雪ならば腐るほどあるのだ。
 被せたい相手がいないのなら、被せる相手を作ってやるしかないだろうか。何もないなら何か作ればいい、それが何の意味を持つかなどは、どうせ考えられない。
 スノードームに閉じ込められたふたつの雪だるま、その片割れは今や自分である。黒い棺から立ち上がり、雪を手にとってみる。右手の指先は雪に触れているという感覚すらなく、冷たくないならばと機嫌を良くして雪玉を作っては転がすことにした。
 作った雪玉を重ねて、大きな雪だるまが鎮座した頃には、視界の端に暗がりが過っていた。ツリーは棺になってしまったので、何かないかと探してみると、困ったことに剣やら斧やら物騒なものしか見つからない。
 それでもいいかな、と首を傾げた拍子に、被っていたバケツが無機質な音を立てて、はっとする。途端に、ツリーと真っ白な雪景色が戻ってきた。
 そうだった、これを被せたいんだった、と緑のバケツを雪だるまに被せてみる。何が起こるというわけでもないが、それだけでひどく満足した。
「俺が雪だるまなら、きみは武流になるのかな?」
 問いかけても表情が返らないのが不服だったので、ツリーから葉を拝借して目と口をつける。考えて、眼鏡の形を指でなぞってみた。ちょうど赤い線になり、赤いフレームを思い出してくすりとする。
 雪だるまに寄り添うように座り込んで、空を見上げた。落ちる粉雪が一瞬星に見えて、確かめるように手を伸ばす。血まみれの指先に雪が触れる感覚がしたと思うと、途端に凍えるほどの寒さと、眠気を自覚した。
 それでも、まぶたを下ろした瞬間の暗闇に、恐怖はなかった。


「兄さん、大丈夫か?」
 普段より重いまぶたを上げて、ゆらゆら揺れる視界に入ってきたのは、心配そうな弟の顔だった。眠気とは違う重さに目をこすろうとして、手に冷たいものが触れる。
「……あ、タオル……? あれ、俺……」
「帰ってきたら倒れてたんだ。顔も真っ赤で、というかすごい熱だぞ」
 『心臓が止まるかと思った』とは、うそぶくようでいて半分本音なのだろう。そう呟いた弟の表情には、焦燥の色が残っていた。
 何かを話そうとして、不機嫌そうな弟の指に遮られる。大人しく黙ると、水と薬を示された。
「たぶん風邪だと思う。まあ、熱が引かなければ病院に行く必要があるが……まずは様子見だな」
 ひたすら家の中にいるのに、風邪をひくなど誰が予想できようか。つい不服に思ってしまったのが顔に出ていたのか、弟がため息のように苦笑して軽く髪を撫でてきた。それだけで、あっさり宥められてしまう。
「今の兄さんにあれこれ言っても仕方ないし、今はとにかく薬飲んで安静にしてくれ」
 ああ、ちょっと馬鹿にされた。軽口に対する軽い思考で、おかしげに思う。
 半身だけ起き上がって、手渡された薬を飲んだ。そうして、少し重い片手を伸ばして、指先をわずか白く見える頬へ。
 その先が冷たく感じたのは、夢を引きずっているからではなくて。自分の手が熱くなっていて、なにより、血の気を引いた名残が弟の頬に残っていたからなのだろう。
 目に見えていたから、何かを言うよりも、ただ、熱を移すように触れたくなった。
 弟が目を軽く見開いて、俯いた。その前の一瞬に見えたのは、まるでまっさらな紙を一気にくしゃくしゃにしたような。
「……心配、したんだ」
 ぽつりと落とされた呟きに、ごめんねと返す。喉はさほどいかれていないようで、呼気が通る僅かな痛みも声には現れていないことに安堵した。
 指先を手のひらに変えて、今度は自分と同じかたちをした頭を撫でる。すると俯けられていた顔が少し上がって、視線が合ったので、そっと微笑むと白い頬にようやく血が通った。
 心配されるのが嬉しいだなんて、ひどい兄さんだよね、とは内心で。
 ――結局、とどめを刺されたのだ。
 迷惑をかけようと、それに罪悪感を覚えていようと。ほんの少しだけ、いなくなってしまいたいと思ったとしても。
 大事な人がいなければ耐えられないので、幸せになれないので、大事な人のために自分も幸せでいたいので。
 そこに大きな矛盾を孕んでいようと、自分にできることは、平穏を願いながら無事に過ごしていこうとするだけだ。その日常に少しでも喜びや楽しみがあれば、きっと自分はいくらでも笑っていられるのだろう。
 諦めだとしても、それでも、そばにいたいから。それが自分の軸なのだ。
 たぶん、どんな時でも、どんな場所でも、大事な人の存在があれば自分は生きていられる。
「風邪が治ったら、クリスマスに向けて何か作りたいな。晴海さんに新しいレシピ貰ったんだよ」
「……そうか、それは楽しみだな。だから、早く治してくれよ」
 とりあえず、弟に美味しいお菓子を作るのを目下の目標としよう。
 確かな熱を持った手で握って、握り返されて、高熱にも浮かされたのとは違うしっかりとした喜びに笑った。

正気と狂気のはざま